煎茶ー山本梅逸と尾張・三河の文人文化ー
愛知県は他県に比べ煎茶人口が多い。身近なところでは、母の知人が煎茶を習っていた。煎茶をお稽古されている方が多いというのは母から聞いた。
個人的な煎茶に関する記憶といえば、平成23年3月15日(火)〜5月22日(日)に九博で開催された特別展『黄檗』である。そのときの記事→http://memeyogini.blog51.fc2.com/blog-entry-1455.html
九博のサイトに残っている同展の概要→http://www.kyuhaku.jp/exhibition/exhibition_s23.html
読み直してみても、煎茶のことは一切書いてないのであるが、煎茶は黄檗宗の祖:隠元禅師こそが日本に明時代の喫茶法をもたらしたのが起源とされる。そして、日本美術愛好家ならずとも今やその名を知る伊藤若冲は江戸時代に煎茶道を広めた売茶翁の墨画をいくつか描いているので、若冲も煎茶をたしなんでいたに違いない。売茶翁と言って真っ先に浮かんだのが若冲だった。
その後、出光美術館で2012年1月7日(土)~2月19日(日)に『三代 山田常山―人間国宝、その陶芸と心』を開催。初めて煎茶道具の一つである急須(茶銚)に魅了される。三代山田常山は常滑焼の急須で人間国宝となった人物。彼の茶器を蒐集していたのが出光家で2012年に初めて出光美術館所蔵の三代山田常山の作品が一同に展観されたのだった。朱泥、白泥、紫泥にこれぞ掌賞玩というべき小さい急須の数々。ひとつひとつ微妙に形が違う。ここで煎茶道具に開眼したと言っていいだろう。普段は行かない出光美術館の講演会にも参加した(今は亡きブロガーの方とご一緒したのを思い出す。)。
前置きが長過ぎる。
で、今回は待望の愛知県陶磁美術館での煎茶展。愛知県陶磁美術館は資料館から美術館に名称変更して以後、意識的にかどうかは不明だが、これまでの陶芸オンリーな展覧会から絵画等とあわせて陶芸を見せる、すなわち、工芸・陶芸を美術の枠で考えさせる試みをされているように思う。本展も陶芸美術館では通常見られない江戸後期の文人画家である山本梅逸はじめ中林竹洞、亀井半ニ、渡辺華山、山田宮常、伊豆原麻谷らの絵画が並ぶ。驚くべき事に図録は、陶芸作品ではなく山本梅逸《桐陰煎茶図》が表紙を飾っているのである。う〜ん、こういう展開は大歓迎。
ことに陶芸は単独で鑑賞するより、もっと大きな文化のひとつとして捉えないと大事なものを見落としてしまう。同館で2013年に開催された『清水六兵衞家 −京の華やぎ−』展は陶家が京都画壇と切り離せない関係であったことを見せてくれた。
本展の見どころのひとつは、清代渡りの唐物道具の数々である。本展出陳作品のおよそ9割は売茶流(煎茶道の流派のひとつ)お家元所蔵品である。これがとにかくすごいの一言。そもそも煎茶道具を所蔵している博物館・美術館は極めて少ない。よって、煎茶だけの展覧会は開催が難しい。今回のようにお家元の全面的な協力なしに開催は困難なのだ。清代の景徳鎮の青花、赤絵はそれはもう見事である。器だけでなく、仕覆や箱も一緒に展示してある点が実に素晴らしい。ことに箱は重要で、外箱に富岡鉄斎ら文人や僧の絵や賛が書かれているので焼物だけでなく箱にも注目する必要がある。いかに大切に保管され伝えられてきたかよくわかる。
また、煎茶に関する書物も沢山出展されている。それを見ると江戸後期に煎茶のお手前や道具がどのようにしつらえてあったか一目瞭然。鉢植えなどが周囲に置かれている場面もあったりと楽しめる。
一見すると抹茶に比べて中国趣味が強い。そして抹茶道具とは大きく異なる。茶托も茶碗もまるで違う。
興味深いのは錫を使用した茶心壷(茶筒)に茶托でなぜ銀でも金でもなく錫なのかは疑問。
至るところに、文人趣味が伺われ、文房具の代わりに茶道具を珍重したように思えた。急須については、銘紅顔少年がとにかく抜群に良かった。後に常山が写しを作っているくらいなので名器中の名器なのだろう。
見どころの2つ目は文人画である。これに関しては前後期(2月23日〜)で展示替えがあるので、各期に鑑賞できる作品数は限られているが、普段なかなか目にする機会のない作品なので要チェック。華山の作品は田原市博物館からの借用だった。
愛知県内には黄檗宗の寺院はないのになぜ煎茶が隆盛したのか、たまたま美術館の煎茶会で隣あわせになったお家元にうかがったところ、ひとつには尾張藩の武士が文人趣味を好んでいた、山本梅逸らの影響などが考えられるそうだが、やはり尾張藩の影響が大きいのではないかと私的には思っている。煎茶は江戸後期がもっとも盛んで明治以後、文人画や文人趣味はこと日本美術においては明治以後、岡倉天心の影響等もあり排斥される。しかし、尾張藩の文化が倒幕後も色濃く残っていた愛知県では、明治維新の影響をさほど受けなかったのではないか。徳川御三家でありながら、尾張藩主は倒幕側に加わった。ひっそりと煎茶を愛する人々が煎茶文化を守ってきたのではないかと想像する。
個人的な煎茶に関する記憶といえば、平成23年3月15日(火)〜5月22日(日)に九博で開催された特別展『黄檗』である。そのときの記事→http://memeyogini.blog51.fc2.com/blog-entry-1455.html
九博のサイトに残っている同展の概要→http://www.kyuhaku.jp/exhibition/exhibition_s23.html
読み直してみても、煎茶のことは一切書いてないのであるが、煎茶は黄檗宗の祖:隠元禅師こそが日本に明時代の喫茶法をもたらしたのが起源とされる。そして、日本美術愛好家ならずとも今やその名を知る伊藤若冲は江戸時代に煎茶道を広めた売茶翁の墨画をいくつか描いているので、若冲も煎茶をたしなんでいたに違いない。売茶翁と言って真っ先に浮かんだのが若冲だった。
その後、出光美術館で2012年1月7日(土)~2月19日(日)に『三代 山田常山―人間国宝、その陶芸と心』を開催。初めて煎茶道具の一つである急須(茶銚)に魅了される。三代山田常山は常滑焼の急須で人間国宝となった人物。彼の茶器を蒐集していたのが出光家で2012年に初めて出光美術館所蔵の三代山田常山の作品が一同に展観されたのだった。朱泥、白泥、紫泥にこれぞ掌賞玩というべき小さい急須の数々。ひとつひとつ微妙に形が違う。ここで煎茶道具に開眼したと言っていいだろう。普段は行かない出光美術館の講演会にも参加した(今は亡きブロガーの方とご一緒したのを思い出す。)。
前置きが長過ぎる。
で、今回は待望の愛知県陶磁美術館での煎茶展。愛知県陶磁美術館は資料館から美術館に名称変更して以後、意識的にかどうかは不明だが、これまでの陶芸オンリーな展覧会から絵画等とあわせて陶芸を見せる、すなわち、工芸・陶芸を美術の枠で考えさせる試みをされているように思う。本展も陶芸美術館では通常見られない江戸後期の文人画家である山本梅逸はじめ中林竹洞、亀井半ニ、渡辺華山、山田宮常、伊豆原麻谷らの絵画が並ぶ。驚くべき事に図録は、陶芸作品ではなく山本梅逸《桐陰煎茶図》が表紙を飾っているのである。う〜ん、こういう展開は大歓迎。
ことに陶芸は単独で鑑賞するより、もっと大きな文化のひとつとして捉えないと大事なものを見落としてしまう。同館で2013年に開催された『清水六兵衞家 −京の華やぎ−』展は陶家が京都画壇と切り離せない関係であったことを見せてくれた。
本展の見どころのひとつは、清代渡りの唐物道具の数々である。本展出陳作品のおよそ9割は売茶流(煎茶道の流派のひとつ)お家元所蔵品である。これがとにかくすごいの一言。そもそも煎茶道具を所蔵している博物館・美術館は極めて少ない。よって、煎茶だけの展覧会は開催が難しい。今回のようにお家元の全面的な協力なしに開催は困難なのだ。清代の景徳鎮の青花、赤絵はそれはもう見事である。器だけでなく、仕覆や箱も一緒に展示してある点が実に素晴らしい。ことに箱は重要で、外箱に富岡鉄斎ら文人や僧の絵や賛が書かれているので焼物だけでなく箱にも注目する必要がある。いかに大切に保管され伝えられてきたかよくわかる。
また、煎茶に関する書物も沢山出展されている。それを見ると江戸後期に煎茶のお手前や道具がどのようにしつらえてあったか一目瞭然。鉢植えなどが周囲に置かれている場面もあったりと楽しめる。
一見すると抹茶に比べて中国趣味が強い。そして抹茶道具とは大きく異なる。茶托も茶碗もまるで違う。
興味深いのは錫を使用した茶心壷(茶筒)に茶托でなぜ銀でも金でもなく錫なのかは疑問。
至るところに、文人趣味が伺われ、文房具の代わりに茶道具を珍重したように思えた。急須については、銘紅顔少年がとにかく抜群に良かった。後に常山が写しを作っているくらいなので名器中の名器なのだろう。
見どころの2つ目は文人画である。これに関しては前後期(2月23日〜)で展示替えがあるので、各期に鑑賞できる作品数は限られているが、普段なかなか目にする機会のない作品なので要チェック。華山の作品は田原市博物館からの借用だった。
愛知県内には黄檗宗の寺院はないのになぜ煎茶が隆盛したのか、たまたま美術館の煎茶会で隣あわせになったお家元にうかがったところ、ひとつには尾張藩の武士が文人趣味を好んでいた、山本梅逸らの影響などが考えられるそうだが、やはり尾張藩の影響が大きいのではないかと私的には思っている。煎茶は江戸後期がもっとも盛んで明治以後、文人画や文人趣味はこと日本美術においては明治以後、岡倉天心の影響等もあり排斥される。しかし、尾張藩の文化が倒幕後も色濃く残っていた愛知県では、明治維新の影響をさほど受けなかったのではないか。徳川御三家でありながら、尾張藩主は倒幕側に加わった。ひっそりと煎茶を愛する人々が煎茶文化を守ってきたのではないかと想像する。
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