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第116回企画「ラスト・シーン展」 中京大学 C・スクエア

名古屋市内八事にある中京大学名古屋キャンパス内のアートギャラリーC・スクエアが今年の1月25日にキュレーターの森本氏による最後の企画「ラスト・シーン」展を終えた。森本氏の退職(ご定年とのこと)により後継者を採用することなく、この後2つのエンドロール企画(2月17日〜3月1日磯部友孝展「彫欲」、3月3日〜3月17日下平知明展)を残しC・スクエアは終了する。

私のような俄美術ファン(本格的に美術館やギャラリーを巡り始めたのは2006年頃〜)がこのギャラリーの存在を知ったのは6年程前のようだ。ブログ内検索をかけたところ2008年12月に初訪しようとしたが17時に閉館と知らずに行って間に合わず(2007年4月から東京に4年在住)、結局初訪は2009年7月の山田純嗣「絵画をめぐって〜The Pure Land~」だった。当時東京に住んでいたこと、日曜・祝日が休廊で17時閉廊だったためその後も気になりつつも見逃した企画展が多い。2006年以後に開催された過去の企画展はC・スクエアの公式サイトで概要が公開されているが、今の自分からすれば垂涎ものの内容で当時の自分にはこの価値が分からなかったんだなと我が愚かさを叱咤したくなった。
絵画、彫刻、写真、版画、アニメーションなど複数のメディアにわたる企画展を開催しているが、特に写真展の充実ぶりに瞠目する。

公式サイトでは確認できないが1999年にC・スクエア企画展「Underground」を開催した畠山直哉氏も同ギャラリーでの写真展の充実を検証する上で欠かせない。そして本展で再登場の畠山氏による陸前高田の写真14点は私の中で生涯忘れられない記憶として胸に刻まれた。

片側の壁面のみを使用したシンプルかつフラットな展示で写真のサイズはすべて同じ。2012年〜2013年に撮りおろした最新作であった。これまで拝見してきた震災後の畠山氏の写真の中では比較的大きめのサイズで、詳細なプリントサイズは不明だがやや横長の正方形に近く、ギャラリーがC・スクエアなだけにプリントサイズもスクエアなのかとくだらない想像まで浮かんだ程。

IMG_0137.jpg
*主催者の許可を得て撮影

14点の最初の1枚目で「これはもう畠山直哉の写真」だとわかる。2点、3点と横に並ぶ陸前高田は抑制と理性の効いた構図で見事にとらえられていた。水平、垂直、重機、うっすらと煙る空気、湿ったアスファルト道路あげていくときりがない。震災後の東京都写真美術館での個展で公開された陸前高田の写真群はまだ写真家の心の動揺をそのまま具現化していたように思う。あれからわずか約2年。2年という年月で何が変わったのか、時間の流れと変わりゆくもの・変わらないものを写真という媒体を使い鑑賞者に呈示する。卓抜した写真家の思考と目と技術と経験にはどんな言葉も陳腐になる。

観者の思考を強く促し、感情をざわめかせ、細部にわたり凝視し長時間目が離せなくなる写真群。
そして最近ひっかかっていたプリントサイズに関する違和感は畠山氏の写真に一切なかった。プリントサイズの違和感は同タイプのものを対象として同じように撮影しプリントサイズだけ大きくした際に抱くことが多い。見慣れた小サイズを大きくすることで間延びするデメリットはあっても、スケールメリットは見られないことがここ最近いくつかの写真展示であったのだが、サイズを大きくするなら大きさにあった構図・撮影技術が必要であるように思う。

本展最終日に開催されたイベント「ラスト・トーク」には残念ながら参加できなかったが、Twitter上で参加された方@konoike_gumi 様のtweetを拾ってみた。*ご本人の許可なく転載しています。
「3.11以降、僕の人生は全く変わってしまいました。つまり、複雑な人間になってしまった。今まで自分のことはある程度わかったつもりでしたが、全くわからなくなった。芸術で表すべきメタファーと、自分個人に起こった出来事がうまく接続できない。なんとかうまくやれるようになるとは思っているのですが。僕は3.11以降は故郷の陸前高田しか撮っていません。昨日も行ってましたが、唯一廃墟として残っている歩道橋を撮ってきました。変な話ですが、懐かしかった。もう全てが片付けられてまっさらな何もないものしかない中で、廃墟だけが記憶を残している。与論島に取材に行った時に、洗骨、という埋葬の風習を写真に撮ったことがあります。亡くなった人を砂浜に埋葬して白骨になったところで掘り起こすんです。気持ち悪くないのかな、と遺族の方に聞くと、懐かしい、っておっしゃるんです。陸前高田の歩道橋の廃墟を見た時と同じだと思いました。」

14点の写真の中に同じ場所を時期を違えて撮影した2点があった。1点は元あったであろうものが失われた大地でゲートボールらしき球技をしている高齢者の人たちが小さく写っている写真。もう1点は夜のとばりがおりてくる頃、ゲートボールをしていた平地が新たな建築物を建てるために掘り下げられ土中に基礎が設置されつつある状態の写真。出入口からは後者の写真の方が手前にあり、その次(奥に近い)にゲートボールの写真。こうして並べられると事実としてどちらが先なのか観者は混乱する。素直に観ると時系列に並んでいるように思えるが、どう考えてもそれはおかしい。なぜこの順番で2点を設置したのか、今も答えが出ないままもどかしい思いが残っている。


ラスト・シーン展には畠山氏の他に映像作家のかわなかのぶひろ氏、鴻池朋子氏も出展されていた。私が訪問したのは早朝だったのだが、奥のコーナーで観たかわなか氏のレトロ調のエロティックで扇情的な動画もまた忘れがたい。同一空間でこの組み合わせはないだろうという驚きも含めC・スクエアそしてキュレーターの森本氏をはじめ運営委員のみなさまに心より感謝を申し上げます。

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「七福神〜幸福・富貴・長寿を願って〜」 熱田神宮宝物館

熱田神宮宝物館で1月28日(火)まで開催中の新春特別展「七福神〜幸福・富貴・長寿を願って〜」へ行って来ました。
熱田神宮は元旦から2週間頃まで初詣の参拝客がすごいと聞いていたので、行ったのは会期終了間際。

展示詳細を調べず行ったのだが、これが想像以上の質と量だった。
東京国立博物館、西尾市岩瀬文庫(ここは本当に良いものを持っているが展示スペースが狭いのが惜しい)、敦賀市立博物館など他館や個人蔵を含めて約75点、結構な見応えだった。

いわゆる縁起物の中でも七福神にスポットを当て、その信仰の始まりや派生を資料からひもとくもの。
中でも熱田神宮ならではだなと感じたのは第1章「幸福への憧憬」で日本書紀(熱田神宮蔵)や古事記、万葉集からの引用を紹介。7という数字は古来より縁起の良い数字とされていたそうだ。

第2章「七福神の成立〜室町時代から江戸時代初期にかけて〜」では応挙の七難之図巻を弟子の源
琦が写したもの(やっぱり応挙の方が断然巧い)、梅津長者物語(西尾市岩瀬文庫)、江戸時代の木造狂言面「恵比寿」「大黒」の2面(この2面の違いが解説されていたのは面白かった)などが出ていて、この段階で「この企画展面白い。。。」と思い始めた。

第3章「七福神のプロフィール」では大黒天、恵比寿、毘沙門天、弁財天、布袋、寿老人、福禄寿の各神の来歴などが紹介されている。絵画あり像あり工芸ありとあらゆる美術工芸品の中に七福神は取り入れられ人々が幸福を祈願してきたことが伝わる。ここでは東博所蔵の雪舟「梅下寿老図」(室町時代)が眼福だった。東博常設でもあまり展示される機会のない重要美術品で大幅の軸もの。老人の足下にいる鹿の目つきが何とも言えぬ意地悪さを潜めていて不気味だ。
他には応挙の「西王母・寿老図」、や河鍋暁斎「毘沙門天之図」などだが、忘れられないのは愛知県東浦町の乾坤院蔵「弁財天像」(鎌倉時代)愛知県指定文化財。仏画はかなり観ている方だと思うが、乾坤院の「弁財天像」は琵琶を弾き、画面向かって左側の松には琴が立て掛けられている珍しい図像。音楽を司る神である弁財天をよく表現しているがそれにしても松に琴をたてかける構図は初めて観た。

他には地元若宮八幡社の福禄寿からくり人形。まさかの大きさでからくり人形であるからには動くという。展示では残念ながら動いていなかったが、江戸時代にあんな巨大なからくり人形が制作されていたのかと驚く。

第4章「描かれた福の神〜七福神信仰の諸相〜」では前章の単独で描かれた神々の姿ではなく七福神として七人(?)の神が揃って描かれた姿を描いた作品を紹介している。探幽「七福神図」や錦絵に混じって引札が数多く出展されていたのが目を引いた。引札とは現在でいう広告で、明治時代の商店の広告に七福神が多く引用されているのは興味深い。

第5章「熱田神宮の初ゑびす」、熱田神宮では有名な初ゑびす関連の作品を紹介、ここで注目したのは昭和の画家:石川英鳳「初ゑびす図」絹本著色だが西洋風の軽いタッチが面白い。安城市出身の画家だったそうだ。

第6章「七福神に加えられたメンバー」メンバーなどというとアイドルグループのようだと思いつつ、七福神に加えられたこともある神「字受女神舞踊図」など神社だけに神関係はやたらと詳しい。他館でも同様の企画が昨年から新春にかけ続いているが七福神に加えられることもあった神というテーマはここだけ。

第7章「幸せを招く宝物」ラストは熱田神宮蔵の縁起物の数々でめでたさ満載だった。

「画人 富岡鉄斎展」 碧南市藤井達吉現代美術館

なかなかブログを更新する波に乗れない。以前どうやって毎日更新していたのか我ながら不思議だ。

碧南市藤井達吉現代美術館は私の好きな美術館のひとつ。ここは開館以来、地道に好企画展を継続している。同館の公式サイトを確認したが意外にも美術館の方針等は公開されていない。設立に際し、おそらく美術館の指針は示されている筈なのでぜひネットで公開して欲しいと思う。

同館の展覧会は彫刻(特に地元の彫刻家を継続的にとりあげた企画展を毎年開催)と碧南に何らかゆかりのある内容のものに大別されるように思う。
今回の富岡鉄斎展は後者の展覧会で、富岡鉄斎が碧南市在の知人宅に寄寓していた際に描いた作品やその知人夫妻に贈った作品を中心に展開。これらの作品が同館に遺族より寄贈されたため、展覧会の出品リストでは所蔵者が碧南市藤井達吉現代美術館になっている。

鉄斎はその生涯で1万点もの作品をのこしたそうで、本展出品作はそのごく一部(前後期あわせて約60点)だが京都市美術館など他館所蔵の名品も借用しなかなか面白い内容だった。
展示は、年代順で初期で特筆すべきは鉄斎が描いた模写の数々。鉄斎は独学で絵を学んだとのことだが、与謝蕪村ら古来の画人の作を熱心に臨模していた様子が伺われる。自力粉本教育の成果は興味深かった。
出展されていた粉本で誰の作を模写したのか判明していたのは数点で、蕪村、司馬江漢で他のものは作者不明。手当たり次第手近にあった良いなと思う作品を描き写していたのかもしれない。

前期展示(1月19日に終了)のみどころは、京都市美蔵の「魚樵問答図」と京近美蔵の「夏景山水図」だろうか」。鉄斎の画法を考えるには飯田市美術博物館蔵「米法山水図」も自分には興味深かった。
京都市美の「魚樵問答図」は屏風の大作で、遠近感、奥行きが感じられ実際の屏風の画面以上の広がりが得られていた。屏風の形態ー折り曲げ効果ーを意識して描かいたと思うのだが実際どうなのだろう。折らずに真っ平らで展示した時の見え方の違いを知りたい。

鉄斎の作品は色彩の使い方も独特で非常に巧い。使う色数は少ないが少量を効果的に使うことに関してはとりわけ秀でている。ただ、本展出展作では彩色のある作品より墨のみで描いた墨画の方が私的には好感をもった。

美術雑誌に掲載されていらい、行方しれずだった3幅対「西王母図」「濾洲仙境図」「福禄寿図」も半世紀ぶりにそろって展示されている。3幅対は鉄斎と親しかった碧南市のご夫妻の金婚式祝いに贈られたものだが、現在「西王母図」のみ別の個人の方の所蔵になっており、残り2幅は今回の寄贈により同館の所蔵となった。

前期展示は1月19日で終了、大作中心に後期展示(1月21日〜2月9日)と入れ替え。
本展はこの後富山県立水墨美術館にのみ巡回します。

「生誕140年記念 下村観山展」 横浜美術館

横浜美術館で開催中の下村観山展に行ってきました。

竹内栖鳳、横山大観と続きいよいよ下村観山の登場。今年は東近美で菱田春草の回顧展も開催されるが、昨年(2013年)は大観、観山、春草が師と仰いだ岡倉天心の没後100年にあたったため、これに関連しての開催かもしれない。

横山大観、菱田春草、木村武山の回顧展は過去に拝見したが下村観山の作品をまとめて観たのは今回が初めて。かねてより各地の美術館、東博などで観山の大作、秀作は折にふれ目にしてきたが、時系列で作品を追うと新知見がいくつもあり大変面白かった。そして、作品の質もさりながら関連資料も多く作品数にも圧倒されて続くコレクション展示は休憩なしで観たがこれは失敗で集中力を欠いてしまい休息をはさむべきだったと後悔している。

本展で初めて知った事実として興味深かったのは観山が両親ともに和歌山県紀州藩お抱えの小鼓方能楽師の家に生まれたことである。父方が幸流、母方が幸清流だったと展覧会の解説パネルに記載があったと記憶している。観山が生まれた明治6年は江戸幕府の崩壊、明治新政府の成立と激動の時代で、大藩に擁護されてきた能楽師も明治において能楽で扶持を稼ぐことは困難になってしまった。

観山がどれだけ能楽の素養や知識を持っていたのか定かではないが、出展作に能の謡曲「弱法師」(よろぼし)関連のものが多いことが気になった。能には観阿弥、世阿弥をはじめとする能作者が書き残した謡曲が数多く残されている。「弱法師」は俊徳丸伝説を下敷きにした能で観世元雅の作。詳細はこちら(Wikipedia)。

東博所蔵の《弱法師》重要文化財に指定され、観山の代表作と言える傑作である。同題の別作品や下絵類、そして弱法師の主役である《俊徳丸》と題した作品もあり、なぜこの弱法師だけをとりあげて描いていたのか、そこに観山は何を意図したのかという疑問が浮かんだ。
そして《三猿》と題した作品を見て、更に疑問は深まる。
見ざる、聞かざる、言わざるの「三猿」を観山は聴覚障害者、視覚障害者、発話障害者の3人を描いて表現した。

余談だが、画家には能楽愛好家が複数いる。例えば、河鍋暁斎(暁斎が描いた能関係の作品だけを集めた企画展が昨年、三井記念美術館と金沢の能楽美術館に巡回したのは記憶に新しい)や上村松園(謡を習っていた)等々。歌舞伎も能もある程度知識として見知っていると美術鑑賞にも役立つ。自分も能楽鑑賞を始めなければ、なぜ観山が「弱法師」を描いたのか疑問をもつことはなかった、それどころか「弱法師」が能の謡曲であることさえ気づかなかったかもしれない。幸いにもまだ数少ない能楽鑑賞経験ではあるものの能「弱法師」は昨年観たので記憶に残っている。

観山には本展未出品作も多くあり、本展出品作だけをしての憶測は危険だが、何らかの個人的経験が関与していたのかもしれない。

そして、晩年になるにつれ画技の高さを誇る観山の作品は技のみに頼ることなく寧ろその逆をいくようなのびのびとした筆致に変化していく。時代の風潮に反するような彼の反骨精神にも好感を持った。
初期作から晩年を通じ、観山は画技だけでなく絵の構想においても卓越した才があり特に屏風ではその才能を如何なく発揮していたように思う。
*会期:2013年12月7日〜2014年2月11日


本展とは別に静岡市の駿府博物館で1月18日から3月2日まで生誕140年記念駿府博物館特別展「KANZAN 第3の男・下村観山」が開催されている。第3の男とはもう言わせない観山像を観たいと思っている。
詳細→ http://sbs-bunkafukushi.com/museum/2013/05/post-21.html

アイチのチカラ!戦後愛知のアート、70年の歩み 愛知県美術館

展覧会の印象(良かったかどうか)と客観的評価は別物だ。
鑑賞行為は経験値や知識により個々人で異なる点は両者の共通項だが、印象は事前に抱く期待値によって左右される。

愛知県美術館で開催中の「アイチのチカラ」展に私が好印象を持てなかったのは、予め期待した内容と異なる内容だったからだ。だから、以下はあくまで私個人の印象と感想であることを予め断っておきたい。

まず、本展が私が失望したのには以下2つの理由が考えられる。
1.展覧会タイトルと内容の乖離
観終わって最初に思ったのは、これが「アイチのチカラ」だと思われたら困るということだった。
本展における「チカラ」とは何を指していたのか。
旧来の画壇や大学における権力、影響力を持った作家の作品群。
むろん、国内での評価が高い作家の作品も多かったが、前衛やニューメディア、写真、工芸は一切排除され、絵画と彫刻という従来より正当とされた「美術」作品がお行儀よく並んでいたにすぎない。

愛知県美術館は、先に亡くなったばかりの東松照明や藤井達吉ら工芸の作家作品も所蔵している。所蔵しているにも関わらずアイチのチカラとして展示から排除されたのはなぜなのか。
そして、愛知県刈谷市出身の河原温や県内公立で美術館を併設する名門旭丘高校卒の赤瀬川原平(ハイレッドセンターのメンバー)、岡崎市出身の志賀理恵子らの作品は所蔵していないのだろう。
前衛作品、写真(東松照明と安齊重男しか所蔵がないと聞いている)の所蔵がないのは、これらに対し同館の評価が低かった美術として評価しなかった裏付けとなる。
本展において見えてきたのは、同館がこれまでどんな作品を評価してきたかの歴史だった。

戦後愛知のアート、アイチのチカラと展覧会タイトルに付すのであれば、これらは戦後愛知のアートでもアイチのチカラでもないと判断されたか。
絵画と彫刻に限定するのであれば、アイチのチカラ!戦後愛知の絵画と彫刻の歩みとでもした方がこちらも期待することはなかっただろう。

愛知県の芸術大学をとりあげていたが、前述の旭丘高校美術科や河合塾美術研究所、画廊、ICAの存在も愛知の美術史には欠くことのできない重要なファクターだと考えるがこれらについてもほぼ触れられていなかった。
なかったものを挙げて行けばきりがないし、展示スペースや所蔵品には限界がある。しかし、繰り返しになるが「戦後愛知のアート!70年の歩み」にしては偏向した内容だったと言わざるを得ない。

2.展示方法
次に残念だったのは本展における展示方法である。なぜ、この作品をここに置いたのか、首をひねることが何度もあった。特に彫刻に関しては置ける場所がないからここに置きましたというように見えた。例えば、展覧会場外にあった庄司達の作品などはポツネンと会場外、展覧会入口の脇の一画に設置され、以前に同館の企画展会場と常設会場を結ぶ中央の円形コーナーに会った時に観た作品の良さが伝わってこなかった。本展ではこの中央のスペースは使用されていなかった。

絵画においても、特に後半、県内の芸術大学に関係する作家の作品は時系列になっておらず、設楽知昭氏の作品は企画展会場を出た通路壁に設置されていたと記憶しているが、なぜあの場所に設置したのか。展示の方法によって、キュレーターが伝えたいものが観る側にストレートに伝わって来ない例と言える。


昨日私のTwitter上には美術関連サイト「artscape」に掲載された美術批評家の福住廉氏の本展レビューが話題にあがっていた。このレビューで私が注目したのは愛知県美術館の収集方針だ。しかし、同氏が引用されていたのは収集方針の一部なので、同館ブログに掲載されている4つの収集方針を転載する。
愛知県美術館の収集方針は、次のとおりです。
・20世紀の優れた国内外の作品及び20世紀の美術動向を理解する上で役立つ作品
・現在を刻印するにふさわしい作品
・愛知県としての位置をふまえた特色あるコレクションを形成する作品
・上述の作品・作家を理解する上で役立つ資料
同館の収集方法は以下「愛知県美術館の公式ブログ」に詳しいのであわせて一読されることをおすすめしたい。
現在を刻印するにふさわしい作品、愛知県としての一をふまえた特色あるコレクションを形成する作品の収蔵が今後偏向なく同時代の美術に関して充実していくことを県民として期待したい。そして、いつの日か偏向なき「アイチのチカラ」が紹介されることを希望している。
・愛知県美術館ブログ:「所蔵作品の収集」2009年11月22日

京の美・コレクションの美・明日への美 ~京都市美術館コレクション問わず語り 京都市美術館

前回は大阪市美の特集展示についてつらつら書いてみたが、キュレーション力はほぼないと言っても過言でない展示でも圧倒的な作品のもつ力と質の前に感動することもある。

そして、今回は前回と対極にあるような京都市美術館80周年のコレクション展についての感想を。こちらも新年早々大変感銘を受けた企画だった。

本展に足を運んだのは新年早々の1月4日。京都市美術館の前にある京近美では「皇室の名品 近代日本美術の粋」(1月13日に終了)を開催しており直前のTV放映の影響か狭い会場は大勢の観客でひしめいていた。京近美の「皇室の名品」展は数年前に東博で開催された「皇室の名宝展第2部」とかなり重複していたが、過去のそれとの一番の違いは第6章「御肖像と大礼」であった。神格化された明治天皇の肖像画に関しては、多木浩二著「天皇の肖像」はじめ幾つか著作があるので関心ある方は一読をおすすめしたい。

さて、ぎゅうぎゅうの京近美に辟易して向かったのがその正面にある京都市美術館。
直前に観終わった京近美の展覧会の続きのような導入部が第1章「博覧会・共進会時代の京都の美術と工芸」であった。京都市美術館が美術館として成立するまで、特に明治期において「美術」が「産業」や「工芸」からの自立を強いられたがその道は容易ではなかった。明治8年の第4回京都博覧会では工芸が優位にあり、明治14年の「第十回京都博覧会」で幸野楳嶺の銅牌受賞により徐々に絵画そして油彩が博覧会場に出品展示されることとなった。
ここから美術館設立の道は長い。博覧会内の美術館がその終了後に払い下げを受け、岡崎町美術館と呼ばれることになったが、美術工藝及工芸の発達奨励上に係る諸種の陳列会に使用する」陳列会場だったという。

本展配布資料に掲載されている初代京都府図書館長:湯浅半月の『京都美術』(「京都の新美術如何」明治39年2月)の「京都は美術市である」から始まる文章を以下そのまま転載する。
「美術市といひながら工藝學校はあるが美術學校はない、博物館はあるが美術館はないではないか。よし京都に美術館を建てても、その中に陳列する美術があるまいといふがまことか』。
大正期になると公立美術館設置の気運はますます高まるが設置に至らず。

第1章で展示されている作品は今尾景年、竹内栖鳳、浅井忠、五代清水六兵衛、(初代)龍村平蔵と「皇室の名品」展出展作家との重複も多く佳品揃いであった。
第1章にして、京近美での皇室の名品展と京都市美の密接でありながら、批判的にも思えるこの京都市美の展覧会の方がより深く美術館とは?、美術の自立についてを考えさせられた。名品をキュレーションを無視するような展示方法でバラバラに配置していたあの展覧会と対局をなす素晴らしい企画であるとしょっぱなから痛感した。

続く第2章は「大礼記念京都美術館誕生から京都市美術館へー「収集」と「陳列」で、2−1「公設美術館買上げと寄贈」、2−2「京都の近代から戦後美術の「収集」形成ー戦後の美術館が担ったもの、2−3画塾作家と京都ゆかりの作家の再「発掘」ー2000年以後の美術館の「収集」で、京都市美術館が積極的に作品買い上げを行っていた過程が買い上げ作品の展示とともに伝わってきた。
大阪市美術館が寄贈中心で所蔵品を形成してきたのと比較すると同じ公立の市美術館であっても収集過程、収集方針の違いは実に興味深い。

第3章の最終章では同時代としての美術館ー「展示」から「プレゼンテーション」へをテーマに3−1版画・写真の可能性への「プレゼンテーション」、3−2「見る」ことを「プレゼンテーション」する作品で、鑑賞について観る側に再考を促す結びとなっていた。

3−1では「アンデパンダン」や「反芸術」といったインスタレーションやアース・ワーク、パフォーマンスといった多様化する「美」の概念の再検討を求める同時代美術の展開について触れている。版画表現に関しては何ができるのかを模索する作家が紹介されていた。例えば、次回国立国際美術館のコレクション展で特集展示される郭徳俊が印象に残る。
現代作家の作品として若手のHyon Gyon(作風は強烈)や唐仁原 希の作品も所蔵し積極的な地元若手作家の作品買い入れは意外であり好感が持てた。

本展担当の京都市美術館学芸課長:尾崎眞人氏の文章を引用する。
鑑賞とは自己の経験知をもとに、作品と対峙することであるが、今日において「美術」は同時に「見えない世界」あるいは「内側の世界」を、いとも簡単に呈示してくれる「装置」でもある。私たちは「知覚」として見えない世界との関連を感じとることができる。世界とのつながりを「美術」とするならば、「美術」に終焉はない。終焉があるとしたら、それは作家が新たな創造を停止するか、評論家が御用批評に走るか、美術館人が研究と時間をかけず作品を収集するような時が来たとするならば、確実に「美術」の終焉はもたらされるだろう。


多分に自己批判的な上記文章に京都市美術館は今後も発展、鑑賞者への啓蒙を実践されるであることは想像に難くない。
日頃足の向くまま鑑賞を続ける私にとって啓示であった。
素晴らしい展示とキュレーションに感謝したい。

なお、本展関連イベントも充実している。詳細は下記公式サイトをご参照ください。会期は2月23日迄
http://www.city.kyoto.jp/bunshi/kmma/exhibition/anv80th_beauty.html

特集展示「古代イタリアの陶器と、コプトの染織・彫刻」 大阪市立美術館

1月10日(金)から大阪市立美術館ではなんと6つのコレクション展、特集展示が開催されている。
その多様さは毎度の事ながら圧巻の一言に尽きるが、それでも今期は更にスペシャル感が強い。
その理由は特集展示「古代イタリアの陶器と、コプトの染織・彫刻」にある。

古代イタリアの陶器はひとまず脇において、コプトの染織!
コプトって何?
大阪市立美術館のコレクション展は一度でも行かれたことがあればお分かりでしょうが、極めて素っ気ない。
まず展示の解説パネルが1枚きり。
作品解説は数点付されているが、大半はタイトル、年代のキャプションのみ。
コプト染織も何度も同館は訪問しているが、コレクション展に出展されていた記憶はこの数年なかった(私が知らないだけかもしれないが・・・)。
昨年「大阪の至宝」展(企画展)が開催されていたが、これにも出展されていなかった筈。
コプトとは一般的にエジプトのキリスト教徒、コプト教徒のことをさすそうで、詳細は大阪市立美術館の本特集展示解説にアップされていた。→こちら
このダイジェスト版が壁にあったが、できればプリントしたものを置いて欲しかった。観終わってから上記解説に気づいたという。。。ちなみにこの特集展示は作品リストもなし。どれも同じような作品名だからかもしれないが、貴重な機会なので作成して欲しかった。

ということで、コプト美術・コプトの染織を今回初めて拝見する機会を得たが、まず状態の良さに驚く。中心となっているのは7〜8世紀日本で言えば奈良時代から平安時代の染織で、正倉院宝物を思い出す。
事実、最大の魅力は文様で、花文、鳥獣文、幾何文、人物文と私がもしもアーティストなら感化を受けそうな面白さがあった。原始的であり、力強い色彩、簡略化された形態だがどこか宇宙的なものさえ感じる文様の美。

Twitterで本展に関して呟いたところ、さる方からパウル・クレーを思い出すというコメントをいただいた。
そこではたと思い出したのが2002年2月に神奈川県立近代美術館(当時はクローズしている鎌倉本館を全面的に使用していた)を皮切りに巡回した「旅のシンフォニー パウル・クレー展」で観たエジプト旅行後のクレー晩年の作品だった。
このパウル・クレー展は私がはるばる名古屋からどうしても観たいと思って初めて遠征した関東圏の美術展で忘れがたい。元々美術に関心が向くようになったのは、東近美で観たカンディンスキー展と常設のクレー《花ひらく木をめぐる抽象》と岸田劉生《道路と土手と塀》だった。

話がそれたので戻す。
2002年のクレー展図録にはクレーが1928年〜1929年にかけ念願のエジプトへの旅をしたことが詳細に書かれている。エジプト旅行での作品は、ピラミッドなど風景をクレー流に絵画化した作品などが図録に掲載されている。記憶違いだったかと図録の頁を繰って行くと1938年以後の作品は黒の太い描線で単純化された記号のような形態が見られる。
コプト美術との関連はこれだけでは到底見出せるものではないが、エジプト旅行がクレーに与えた影響の強さは晩年の作品から伺われる。
同展図録に寄稿された美術史家の奥田修氏の論考「旅の日のクレー その足跡を訪ねて」の中に引用されているケルステンのコメントを以下抜粋する。
「彼(クレー)は、エジプトへの見学旅行においてもはや1914年のチュニジア旅行でのように、芸術的半文化の理想を追求するのではなく、逆に彼自身の多少とも確立した芸術を一般に認められた、数千年以前に遡る高度の文明の伝統に結びつけようとしたのであった」。

コプトの染織に何を見出すかは見る人次第。
「人物鳥獣文 綴織覆布」をはじめ、十字架を模した残片など1点足りとも見逃せないものばかり。
建築装飾の一部もヘレニズム文化の香り漂う葡萄唐草文などこちらも文様の美がみどころ。

写真撮影は不可、染織は文様が極小なので単眼鏡、双眼鏡の類いの持参をおすすめします。

それにしても大阪市立美術館は国内公立美術館の中でも非常に珍しいコレクション形成で、基本的にアメリカのMETのように個人からの寄贈品を主体としているが、同館が購入(昭和37年)したのがよりにもよってコプトの染織だったとは。
ニッチでマイナーな選択をしたのだろう。ただただ驚嘆した。
*2月11日(火・祝)まで 
http://www.osaka-art-museum.jp/def_evt/古代イタリアの陶器とコプト染織・彫刻/#cnt_3

「名所図会の世界」 蓬左文庫

蓬左文庫の「名所図会の世界」に行ってきました。

と言っても蓬左文庫の企画展は徳川美術館内にあるので、徳川美術館の入館券がないと鑑賞できません。
企画展とは別に蓬左文庫の常設らしきものもあり、そちらは入口は完全に別で無料なのですが、蓬左文庫の企画展と徳川美術館とは別の入口があると良いなと毎回思います。

蓬左文庫は名古屋市の施設で、徳川美術館とは母体も異なりますが同じ建物にあるという。

今期の蓬左文庫は「名所図会の世界」と「旅をつづる」の2つの展示が行われています。
後者も「御在所絵日記」など今で言うマンガのような描写の絵日記があり、大変面白かったのですが、江戸時代の出版文化を垣間みることができた「名所図会の世界」が印象に残りました。

「名所図会」の成立と流行と題して1780年の「都名所図会」を冒頭に名所図会の成立と京都だけでなく、大和、紀伊、日光、東海道、木曽路など参詣や名所を絵図であらわす、いわゆる観光ガイド的役割を果たしていたのでしょう。
明治に入っても名所図は引き続き作成され、「神都名勝誌」神宮司庁編(展示されていたのは7冊のうち2冊)の展示により神仏習合→明治時代の神仏分離、国家神道へと時代が転換していったのがよくわかりました。

さらに、尾張でも『尾張名所図会』の編纂の動きがあり、これを制作しようとした一派は尾張藩の学問に通じた藩士たち。
志は高くても名所図会を出版するお金を尾張藩は供出してくれません。
そこで、彼らは自費出版を思い立ちます。
とはいえ、まずはパトロンとなる有力者、商家からの依頼で絵を描きその代償に金銭を得ていました。
今も昔も大して変わらないなと様々な資料から伝わってきました。

この展示では、コラムと題して作品解説や章解説とは別にポイントを分かりやすく紹介していて好感を持ちました。
歴史史料はとっつきにくいと思われがちですが、この展示ではそうした難解さが緩和される工夫が見られました。

展示されている版本のひとつに、尾張に葛飾北斎が逗留し、大ダルマを揮毫した様子が描かれた版本が出展されています。
名古屋ボストン美術館の北斎展とあわせて、本展示を観るとより楽しめると思います。

会期:1月4日〜2月11日

「新年を祝う」 徳川美術館 

新年あけましておめでとうございます。

年明け最初の記事は、徳川美術館で開催中の「新年を祝う」展。
年始にふさわしいというだけでなく、さすが徳川美術館!と思わず唸ってしまうような珍品もあり展示総数157点とお腹いっぱいになる素晴らしい内容でした。

展覧会の構成は次の通り。
・年のはじめに
・大名家の正月行事<初登城、謡初め、若菜の祝儀、御具足の祝い、新年の祝膳>
・新年の挨拶と贈り物
・姫君たちのお正月
・お正月の遊びと縁起物<かるた、双六、縁起物>
・午年を祝う<郷土玩具>

印象に残った作品を追いつつ感想を。
「年のはじめに」冒頭では応挙「華洛四季遊戯図巻」下巻、あらためて見ると新年の準備に追われる市井の人の様子が細部まで描写されていて江戸時代の街中の様子が伝わってきます。応挙の描く人物は基本的にどれも柔和な顔をしているのも特徴で、仔犬の絵がその最たる表現だと思いますが愛らしい。

「大名家の正月行事」、中でも「謡初め」に関する展示は面白かったです。尾張徳川家では1月3日に「謡初め」と称する年初めの能行事が行われたそうです。現在でもその名残は名古屋市に残っていて、今年は私も初参加。事前に整理券(1人2枚まで)をもらっておけば誰でも無料で名古屋城側の名古屋能楽堂での「謡初め」を鑑賞できます。江戸時代に能を完全通しで行っていたのかは分かりませんが、天下泰平・五穀豊穣・国土安穏を祈る祝事能の「翁」や「高砂」などめでたい曲が武士たちの前で上演されていたとのこと。その城内の様子を描いていたのが明治に活躍した楊洲周延。
展示されていたのは「千代田之御表」三枚続(「正月元日諸侯登場玄関前之図」「御流れ」「御謡初」)。目にも鮮やかな彩色で刷り立てほやほやかと思う状態の良さです。
注目はもちろん最後の「御謡初」で何やら武士達が裃を脱ぎ捨て、舞台にあがっている能楽師達に投げている様子が。。。
この頃、ご祝儀として武士は裃を能楽師に与え、それを拾った能楽師たちは後日、裃の家紋から何家の武士かを判断し、武士宅を訪れ裃と引き換えに褒美をもらっていたそうで。なんとまぁ、家紋を知ってないと褒美貰えず手間のかかる余興のような風習があったのだなぁと驚くこと仕切り。
周延は旗本の長男として生まれたので、このような場にも出ていた、だから描けたのでしょう。楊洲周延の浮世絵はこれとは別にもう1点「姫君たちのお正月」のコーナーで「千代田之大奥」が出展されていました。

この他にもお能好きなら嬉しい室町時代の能面「白式尉」や「翁蒔絵鼓箱」など能関係の展示品が20点程あり目を引いたのは徳川美術館訪問前日に私も「翁」を観たからだと思います(*無料の謡初めとは別)。

「お正月の遊びと縁起物」では珍しい江戸時代のかるた「大名かるた」「武器かるた」や歌川国芳「本朝百勇伝英雄双六」などすごろく類、驚いたのは各地のだるま。
郷土玩具を尾張徳川の藩主(14代?記憶があやしい)が蒐集していたそうで、今回の展示ではその収集品の一部(個人蔵)がずらりと並び実に面白かったです。各地でだるまの表情だけでなく色や形態も様々。並べてみると違いがよくわかる。
名古屋でも昔は張り子を作っていたそうです。だるま、大黒、布袋、招猫などの縁起物に関しての説明もあり、昨年の町田市立版画美術館で開催された「縁起もの」展の延長、大名ヴァージョンでした。

ラストは「午年」を祝うとして今年の干支である馬に関連する作品が並び、ここでの注目は明の唐墨で墨に施された緻密な彫に馬が何頭も。。。さすがは徳川美術館と唸った次第です。

会期:1月4日(土)〜2月2日(日)
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