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「ゼロ年代のベルリン ―わたしたちに許された特別な場所の現在」 東京都現代美術館

ゼロ年代のベルリン

「ゼロ年代のベルリン ―わたしたちに許された特別な場所の現在」 東京都現代美術館 9月13日~2011年1月9日
http://www.mot-art-museum.jp/exhibition/128/1

世界から集まりベルリンに在住する18組のアーティストによる、映像、絵画、パフォーマンスなど多様な表現による作品を紹介する展覧会。*パフォーマンスは映像化されている。

開催当日は午前中にパネルディスカッション、午後に3組のアーティストによる作品プレゼンテーションがあり、両方参加した。
以下、それらを参考に印象に残った作品を振り返ります。
なお、本展のすべての作品が出揃うのは10月29日以後となりますので、ご注意ください。10月29日以後は1階と地下1階の展示になるようですが、それまでは地下1階の15作品のみです。

また、15作品の約半分が映像もしくは映像インスタレーション。
原美術館で先日まで個展が開催されていたミン・ウォンの2010年≪明日、発ちます≫は5面スクリーンでそれぞれ別のシーンが約13分ループで上映となっているため、全てを観るためには13分×5必要となる。今回は、イタリア映画の鬼才パゾリーニ監督の「テオレマ」(1968年)をベースに登場人物5名をミン・ウォンが演じ分けています。

ミン・ウォンを除く映像作品だけでも最短で約1時間半は必要です。個人差もありますが、映像好きなら時間には余裕を持っておでかけください。

ベルリンと言えば、現在多くのアーティストが世界中から集まり制作や拠点としている場所の筆頭と言えるだろう。
1989年のベルリンの壁崩壊後、急速にベルリンの状況は変化し、経済、政治のみならず街の風景までも一変しているような都市というイメージがある。
ディスカッションでは、ベルリンに生まれたアーティスト、デンマークに生まれ育ち、NYやインドなどに移り住み、現在ベルリン在住、もしくはベルリンとロンドンを行ったり来たりと、ベルリン在住のアーティストと言ってもベルリンとの関わり方は個々のアーティストにより様々であることが良く分かった。
彼らに共通していたのは、ベルリンはアーティストが制作するには適しているが、お金を稼ぐことはできない場所だということ。
規制は比較的緩やかで、ヴォイドのようなフリースペースが各所にあり、また歴史や文化も豊穣で制作活動には適した環境。ただし、ベルリン市には経済的余裕はなくアーティスト支援は望めず、プライベートな財団からの助成に頼るしかない。例外として挙げられていたのが、オラファー・エリアソンのスクールで、彼のスクールは若手作家の育成を目的に公的資金による援助がされているのだそう。

そんなベルリンの都市を一番反映した作品を作っていたのは、マティアス・ヴェルムカ(1978年生)&ミーシャ・ラインカウフ(1977年生)。いずれも旧東ベルリン生まれの二人組アーティスト。
私は彼らの作品を昨年4月に水戸芸術館「「REFLECTION」リフレクション/映像が見せる“もうひとつの世界”展で初めて観た。水戸では3つの作品が上映されていて、作家の名前はすっかり失念していたが、作品を観てすぐに思い出した。
水戸では、セリフがないにもかかわらず妙に気になる作品で、ただ作家の意図するものがよく分からないままに終わってしまった。
しかし、今回来日し、本日のディスカッションとプレゼンに参加していたのは非常に嬉しかった。
特に彼らのプレゼンテーションは興味深く、何に関心があり、現在のようなユニットとして映像作品を制作するきっかけまで作家自身の言葉を聴ける貴重な機会を得た。
マティアスがパフォーマーとして映像作品に写されている、つまり作家の自演であることが判明、それを撮影するのがミーシャ。その後、撮影した映像をアートの文脈に乗るように編集に入る。

マティアスはユニット形成前に彫刻を学びアートを、ミーシャは映画を作っていた。二人は、過去に近所に住んでおり仲が良かったが、その後引っ越しがあり離れ離れに。再会した時、ミーシャは映画製作に行き詰まりを見せていて、二人で試行錯誤して行った結果、現在のような短編映像や映像を使ったインスタレーションを制作するユニットとして活動する形態となった。

二人の関心事はパブリックスペースの「境界」にある。パブリックスペースがどこにあるのか、そこに何があるのか、更にその向こうに何があるのかに興味がある。

なるほど、それが分かると水戸芸術館や今回展示されている作品≪ネオンオレンジ色の牛≫(6分30秒)も納得できる。マティアスがベルリン市内のあちこちでブランコに乗るシーンが繋ぎ合わされている。こんな場所でブランコが!という驚きもあるが、マティアスの眼はブランコを漕いでいる時何を見ているのか。
この作品のラストシーンの美しさは特筆もの。過去に観た作品にも共通するが、二人の映像作品は映像そのものに美しさがある。だから、意味が多少分からずとも見入ってしまうのだ。
更に面白いのは、こうしたパブリックスペースでのパフォーマンス(今回はブランコ乗り)に当局の許可を一切取らないこと。
プレゼンでは他の作品の一部も幾つか見せていただいたが、パトカーや電車の窓ふきを突然モップで始めるなど、非常に大胆な作品もあった。最後はつかまって連行されそうになるが、逃げ出す場面まで撮影されている。

また、今回は単純にスクリーンに映像を流しているだけだが、ベルリン(?)では、展示室内に梯子をかけたり、室内に人が入れる程の部屋を作り、小さな穴からのぞくとベルリンの写真が、また映像作品もモニターで上映したりと、観客がパブリックスペースで何を見ることができるのかを提示したインスタレーションも展開していた。


サイモン・フジワラは日本人の父とイギリス人の母親との間に1982年に生まれた。2010年にはカルティエ賞も受賞し、2011年シンガポール・ビエンナーレ、第29回サンパウロ・ビエンナーレに出品するなど世界の注目を集める新進気鋭の若手アーティスト。
本人は、ケンブリッジ大学で建築を学び、その後フランクフルト造形美術大学でサイモン・スターリングに美術を学ぶ。
今回の作品≪フジ・リユナイテッド≫は彼の父、カン・フジワラと共同制作を行って参加。
これが驚くようなインスタレーション+映像作品。英国陶芸の父と言われるバーナード・リーチと濱田庄司の関係をメタファーにして、西洋的な父権のあり方や父と子供の関係を問い直す実によく練りこまれた作品。
映像作品は、劇中劇のような展開で、サイモンが書いた脚本を演じるために西洋人男性を応募し、その候補者と台本をもとにサイモン自身と応募者が対話する所を映像化。

彼もトークとディスカッションに参加していたが、この作品は3部作の最後で、前の2作品についてのプレゼンもあったが長くなるので割愛。実にその内容はフランコ政権下の同性愛や近親愛をテーマにするなど衝撃的作品だった。プレゼンは3名の作家のラストで、時間が押せ押せになっていたこともあり、マシンガントークで、さすがに同時通訳の人も訳しきれず大変そうだった。

サイモンは、レクチャー形式のパフォーマンス、インスタレーション、彫刻や小説といった手法をとるのが特徴。本作品ではまさにインスタレーションあり陶芸あり、戯曲を自身で作り自演するという活躍ぶり。

今年の7月から8月にかけて馬喰町のTARO NASUギャラリーでライアン・ガンダーキュレーションによる海外作家6名のグループ展「Humid but cool, I think.」にサイモン・フジワラは参加していた。彼の作品はこれまた6名の中で一番記憶に残っていたものの、この時はよく意味が分からず。今日やっと、そういうことだったかと理解できた(そんなのばっかりです。)。
このグループ展はTARO NASUのサイトをご参照ください。→ こちら

フレンチ・ウィンドウ展では印象の薄かったアンリ・サラ、彼の≪入り混じる行為≫2003年は展示空間自体に意味する所があったし、ヨン・ボックは東京を舞台に撮影し映像化した新作を発表し、これまた面白い内容になっている。

平面作品《信頼できるもの》(2011年)では、ヘギュ・ヤンの情報保護封筒の地紋を切り取って再構成コラージュが美しかったし、その意味する所、プライベートとパブリックの関係を問いかける。
イザ・ゲンツケンのミニマルな彫刻とカタリーナ・グロッセの組み合わせも良かった。

ただ、特に映像作品、平面作品はもう少し展示方法に工夫ができなかったのかなと思う。ホワイトキューブの壁にただ並べただけでは作品の面白みや良さが活かしきれていないもの、例えばプレゼンにも参加していたキアスティーネ・レープスト―フのコラージュ作品など、もあった。

*今後、大幅に加筆・修正する可能性があります。

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