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奥村雄樹 「ジュン・ヤン 忘却と記憶についての短いレクチャー」 東京藝術大学博士審査展

奥村

奥村雄樹 「ジュン・ヤン 忘却と記憶についての短いレクチャー」 東京藝術大学博士審査展
東京藝術大学絵画棟1階 12月11日~12月21日 注:12月19日(月)休 10時~17時[入場は16時半迄)

東京藝大博士審査展に出展中の奥村雄樹 「ジュン・ヤン 忘却と記憶についての短いレクチャー」を拝見した。

作品は12月21日(水)まで上映中であるため、これからご覧になる方は以下、読まない方が良いかもしれません。
ただ、この作品に関してはどこからどこまでをネタとするのか、その範囲が個人的には分かりません。以下をお読みいただいた場合、作品についての新鮮味は薄れるでしょうが、逆に最後まで観てみようと思うのではないかと勝手に考えています。

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完成作は30分の映像作品であるが、この作品の元となっているアーティスト:ジュン・ヤンの特別講義は今年の11月17日に実際に行われている。質疑応答も含めたら2時間を超える熱いアーティストトークだった。詳細はこちら

学生だけでなく学外の人間でも受講できたため(しかも無料)、厚かましく私も聴講。この講義は同時にユーストでも中継され、その後数日間はアーカイブで視聴することが可能だった。
講義の様子を撮影し、後日、主催者である奥村雄樹の作品として使用されることが事前に告知されていたので、どんな作品になるのだろうと楽しみにしていた。

このため私にとっては、完成された映像作品だけでなく、特別講義の準備から告知などの段取り、そして講義当日のディレクション、統括も含めたプロジェクト全体が彼の作品だと思っている。

特別講義は、1975年生まれのトリリンガルの男性アーティスト:ジュン・ヤンによって、そして通訳は小林禮子氏によって行われた。
しかし、本作では、アーティストの姿はほとんど登場しない。映像の中心は通訳者の半身アップで、時折、会場にいた聴衆に場面が変わる程度。アーティストはラストに少しだけ登場し、特別講義について知らない観客は、ここで初めて明確に作品のからくりが分かる。
講義内容は2時間、映像は30分、4分の3は編集によりカットされている。
実際の時間より早回しされている部分もあり、更に画面切り替えの速さなど、かなり手が入っていた。

英語によるアーティストのスピーチを通訳する通訳者の映像と通訳(日本語音声)と、そして画面下には英語字幕がある。
(誤)なお、重要なのはこの英語字幕が奥村雄樹自身により行われていることだ。
 → 正しくは荒木悠(アーティスト)が担当し、重要なのは通訳者の日本語を英語字幕にしているという点にあった。
注:作品は会期中何度か手が加えられ、当初、英語字幕は付いていなかったとのこと。完成作は英語字幕付

博士審査展での出展であるため、作品にはもれなく博士論文がついている。
本作における論文テーマは『身体の非実在性がもたらす超次元的経験の諸相について-「うつる」という概念を手がかりに』。

「身体の非実在性」とは何のことだろう。私は作品を観た当日(12月17日)に次のような感想をこの記事中で書いた。
特別講義を行ったアーティスト:ジュン・ヤンの身体は映像では見られず(非実在)、彼の言葉を通して、その思考が通訳者を一時的にのっとり、通訳者の身体を通じてアウトプットとして発声される。これを言葉を媒介とした憑依体験(憑依という言葉を奥村はよく用いる)と位置づける。

ところが、上記は、論文タイトルや日頃からのtwitter上での作家の呟きなどにより勝手類推したものだった。つまりは憶測。
12月18日深夜にアップした記事を作家が読み、以下のレスtweetを頂戴した。

@oqoom :僕が論文で言ってる「身体の非実在性」とは、身体というものが非実在的(事実として存在しない)な領域を不可欠な構成要素としてるという意味です。たとえば私にとっての私の身体は、鏡像という非実在的な領域なくして成立しない。など。

これも日常レベルでの言葉を媒介とした誤解釈の一例と言えるが、ひとまず脇に置いておく。


オリジナル:ジュン・ヤン(英語) → 通訳者:小林氏(日本語) → 英語字幕:発話された日本語を英文へ視覚化

ジュン・ヤンの英語によるスピーチをオリジナルとすれば、最終的に生まれた英語字幕はそのコピーだ。
ここには、様々な誤解や解釈の差異が生じる可能性を孕む。
通訳者は、他人の目に見えない思念に支配されているのか、自分自身の制御化にあるのかという疑問が生じてくる。更に、翻訳者についても同様のことが言えよう。

鑑賞者たる自分は翻訳者による英語字幕を眺めつつ通訳者の日本語スピーチを聴くという聴覚と視覚で異なる言語領域にとらわれる体験。更に言えば、私は特別講義を受講したため、自分自身の記憶にアクセスしつつ、ジュン・ヤン自身の言葉はどうであったかを思い出そうとしていた。ここにおいて、見えないジュン・ヤンの存在を意識していたのは間違いない。

したがって、聴覚・視覚の2チャンネルの異言語支配+アルファ(時間を遡及し脳内記憶にアクセス)、が同時に行われたことで、十分に集中することができなかった。いや、違う。集中できなかったのは、通訳者自身の体内を通じて発せられる音声であっても、思考は借り物だったためか。一体、通訳時において、通訳者はどのレベルまで被通訳者の支配が及ぶんでいるのかを考えさせられる。

また、本作は、鑑賞者の体験や経験値などによって鑑賞体験がかなり異なることも特徴として挙げられる。
冒頭で「ネタばれの範囲」について触れたが、講義に参加し聴講した観客は、すぐに登場人物が通訳者であると分かるし、アーティストの背景や制作、関心事を知っているほどネタバレ度は高い。
逆に、何も知らずに作品に接した日本語を母国語とする観客の鑑賞体験はどうなるか。彼らはまず通訳者の日本語発話と映像に注意を払うだろう。どこか自分の言葉ではないような言葉を話す人物を観て、彼女をアーティストまたは講師と思ったに違いない。しかし、どちらであっても、この作品を楽しむことはできるだろう。そこに作品としての精度の高さを感じた。

通訳者、翻訳者、鑑賞者(オリジナルを知っている、知らないの2層に分かれる)と複数層の立場において、複数の言語とチャネルを絡めつつ作家の関心領域を検証する作品だと言えるだろう。当初の予定としては、通訳者の立場がメインだった筈だが、見事に多層的な展開を見せている。大がかりな認知心理学実験のようにも感じた。


なお、奥村はtwitter上で本作について12月18日に補足をされていたので、付け加えておきたい。
@oqoom 奥村 雄樹
【突然ですが独白】今回の僕の作品は、もちろんこれまで僕がやってきたことの延長線上にあり、それを更新するものですが、それとは別に、芸大の博士展という文脈に対する僕なりのアプローチでもあります。(1)

そもそも僕が博士課程に入ったのは、ぶっちゃけ、台湾の美大で教えるために博士号が有利らしいから…というものでした。当時おつきあいしていたのは台湾の方で、移住も考えていたので。(2)

(大学での講師業は、天職…ってのは言い過ぎだけど、とても好きな、やりがいのある仕事です。3年間つとめたムサビの非常勤講師業が今年度で終わるので、心の支えが…。玉川は続けます)(3)

しかし、そうやって博士課程に身を投じることは、そもそも美大の実技系の博士課程は単なるモラトリアムの延長でしかないと思ってた(今も基本的にはそう思ってる)僕にとって、自己矛盾でした。(4)

今回の作品は、ある意味、この矛盾を乗り越える試みでもあります。東京芸大で作品を作り、見せ、博士課程に在学し、博士審査展に作品を出すという状況における、いわばサイト・スペシフィックなプロジェクト。ジュンの講義を企画することから今回の展示までの全体が、です。(5)

だからこそ今回の作品は、芸大美術館のホワイトキューブではなく、絵画棟アートスペースという校舎の中の一室で展示したかった。今年はもともと全員が美術館で展示ということになっていたけど、きちんと必然性を伝えて筋を通せば問題なかった。(6)

ここ一年の僕の日々をご存知の方はよ~~くわかると思いますが、いわば、僕は東京芸大でArtist in residenceをしていたようなものです。もう終わりが近づいてるけど。(7)

いずれにせよ、とりわけ、いま芸大の博士課程に在学中の人、これから在学予定の人には今回の作品をじっくり30分見てほしい。この作品の実現のために僕が何を行ったのか、その全体について考えてほしい。批判しても称揚してもいいけど。そして、自分の博士展用作品でこれを乗り越えてください。(了)


作品を観て、いくつか疑問が浮かんだので以下列挙する。

(1)映像作品を観て気になったのは、通訳者の手のアップ。
細かい手の動きをカメラはよく追っていたが、何を意味していたのだろう。意味などないのだろうか。例えば、細かな手は、誰の支配が及んでいたのか。
(2)オリジナルの講義中、通訳者がもっともオリジナリティ溢れる訳を行っただろう場面があったが、作品ではカットされていた。まさに憑依と言って良い状態だと思ったが、カットしたのは30分の文脈にそぐわなかったためか。
(3)なぜ、30分の作品としたのか。やや冗長とされる恐れを感じたので。
(4)忘却と記憶についての短いレクチャーというタイトルの意味
実のところ、これが一番分かっていない。レクチャーの内容も本作の内容とも直接的には関係しないように思う。
通訳時に発生する現象のことか、それとも言葉を使用する際に我々は常に過去の記憶とアクセスするということか?

博士審査論文は100ページにもわたる大作。少し目を通してとても興味深い内容だったので、是非頭からじっくり読んでみたい。その時、作品についての感想はまた違ったものになるような気がする。
いずれにせよ、何度か反芻したくなるような、かつ、実に貴重な鑑賞体験と思考の機会をいただいた。

*12月17日にアップした記事中において、英語字幕担当が誤っていたこと、「身体の非実在性」の解釈誤りにつき、謹んでお詫び申し上げます。
・12月18日(日)23:00 大幅な加筆修正

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