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「愛・知のリアリズム 宮脇晴の周辺」 豊田市美術館

豊田市美術館で開催中の「愛・知のリアリズム 宮脇晴の周辺」展へ行ってきました。

常設特別展の位置付けですが、所蔵品を使用した立派な企画展で東近美や近隣他館、個人蔵を借用し約120点で宮脇晴をキーとしつつフュウザン会、草土社、愛美社の作家たちを紹介している。

草土社、愛美社と言えば思い出すのは刈谷市美術館で2007年に開催された「岸田劉生の軌跡」展と同時開催の「岸田劉生と愛美社の画家たち」で本展で紹介している作家はこれとほぼ重複していた。自身のブログで検索をかけたところ、岸田劉生の軌跡に感動するあまり文中で「岸田劉生と愛美社の画家たち」にまるで触れていないが、しっかり記憶に残っている。

さて、今日のお題は宮脇晴だ。
私の場合、宮脇晴よりもその宮脇晴と妻でアップリケ作家の宮脇綾子との次男であった故・宮脇檀を先に知った。宮脇檀は住宅を主に手がけた建築家でエッセイも数多く残している。宮脇檀のエッセイが好きでほぼ読んでいた(美術好きになる前)が、ある日豊田市美術館で宮脇晴の作品と経歴を見て、宮脇檀の父と知って驚いた。
宮脇晴は、本展チラシにも採用されている名古屋市美蔵《夜の自画像》1919年が際立つ。細密描写で描き込んだ麦わら帽子や着用している衣服の質感と背景の黒、顔にかかる陰影。晴の真摯な熱い志が自画像の瞳と固く結んだ口元から伝わってくる。宮脇晴の代表作と言って良いだろう。

第1部では、大正時代の美術界を席巻した岸田劉生の登場、フュウザン会、草土社、草土社の名古屋展の影響力、愛美社設立といった流れが代表作家の作品や展示風景の写真など資料とあわせて紹介されている。

刈谷市美術館の公式サイト「岸田劉生と愛美社の画家たち」から引用します。
「草土社名古屋展は大正6年に愛知県商品陳列館で、大正10年には十一屋呉服展で開かれ、同年名古屋を訪れた劉生は草土社美術講演会(現椙山女学園講堂)で「装飾と模倣」について話しました。そして大正12年の関東大震災で鵜沼の家を失った劉生が京都に転居する前、約半月間身を寄せるために滞在し、震災後初めて絵筆を取ることになった地が名古屋でした。
 また、名古屋生まれの大澤鉦一郎(1893-1973年)は、大正6年の草土社第1回名古屋展にわずか3日間の開催ながら、毎日足を運びました。自らの精神性と近い世界観を感じたであろう大澤は、劉生に対抗するように、同年、萬代比佐志、森馨之助、鵜城繁、藤井外喜雄、山田睦三郎、宮脇晴、水野正一(1921年には参加)と「愛美社」を結成しました。大正10年の第3回展を最後に愛美社は自然解散してしまいますが、細密描写による作風を深化させました。」

十一屋呉服は現在の名古屋市内栄にある丸栄の前身。東京以外で初めて開催された草土社展は名古屋だった。これに関しては愛知県美術館が2001年に開催した岸田劉生展(未見)関連の同館サイトに詳細が掲載されている。長いため以下リンク。
http://www.aac.pref.aichi.jp/aac/aac32/aac32-6-3.html
第1回草土社名古屋展の出品作リストが今回の展示でも出展されているが、目録を見ると岸田劉生がいかに名古屋展に注力していたかがよくわかる。既に芝川コレクションとなっていた「切通之写生」をはじめとする優品を多数出展。背景にどんな目論見があったのかは分からないが、この力作を見て影響を受けた大澤鉦一郎なくしては宮脇晴の画業もなし得なかったやもしれない。

大澤との出会いによって宮脇は大澤に師事、徐々に才能を開花させる。両者は草土社で活躍していた劉生の画風をより一層緻密で写実的であくが強い。愛美社なる団体まで新興させる劉生の影響力の強さを思い知らされる。当時は写実表現が席巻していたのだろう、日本画では速水御舟が日本画とは思えぬような細密濃密描写で静物画や《京の舞妓》など人物画を描いた例もある。

第1部で驚いたのは宮脇晴が能面を打っていたという事実。晴が能面を制作している様子(1927年頃)や晴の打った能面を名古屋能楽堂でシテが付けている様子などの写真が展示されていた。実際に晴が打った能面2点《喝食》《痩女》1934年(いずれも名古屋市美蔵)も展示。第41回春陽会展目録1964年5月号には「亡母の面影を能面に打たむとして詠める歌三首」として晴は歌を寄せている。能との関わりは能面制作に関する写真と面しかなくそれ以上の解説がなかったがもう少し詳しく知りたかった。

第2部は宮脇晴の戦後の作品を紹介。
第1部の晴のもっとも遅い制作時期の作品が1928年《赤椅子の裸婦》であるが、この絵は既に写実一辺倒のあの密なものからかなり離れている。劉生よりも中村彝の作品に近しい印象を受けた。
第2部は1928年から3年飛んで1931年《母が結核と判って悲しかった日》、1932年が1点、そしてここから一気に10年後の1942年《子供たちと母》に続く。以後、10年単位で2〜3点の作品が並ぶが、1920年代の作風はどこへ?という程、画風が変化している。戦後の作品には脇田和を思い出した。

第2部の作品で「形の単純化」、「色遣い」、「画面構成」において新しい作風の萌芽を感じたのが《月と雲と山》1967年。家族など人物画でなく風景、想像上なのか写生をもとにしているかは不明。本作の類作は他にはなかったのは惜しまれる。

1930年代と戦時中の宮脇晴に関しての解説がなく、いきなり画風が変わった作品が第2部で登場するので、ここを埋めるものが欲しかった。劉生の死や社会動向の変化だけでは説明できない変化の大きさだ。劉生は4度来名したそうだが、愛美社のメンバー作品からは細密描写時代の劉生作の強い影響は見られたが、劉生のその後の作風の変化には感化されていないようだ。デロリや和様への転換が宮脇晴含め彼らの作品には登場しない。

リアリズムは写実表現のことを指しているのだろうか。企画展と同時開催の常設展でも「手探りのリアリズム」とリアリズムがキーワードになっているが、常設では新たなリアリズム表現を問う作品を紹介。「リアリズム」とは、あえてリアリズムを問うたのはなぜなのかは展覧会を見ただけでは理解できなかった。ウェブ媒体の「artscape」の美術用語辞典で「リアリズム」を検索してみたら腑に落ちるところがあった。

本展関連イベント
講演会「岸田劉生と愛美社」 山田 諭(名古屋市美術館学芸員)2月23日 14時〜15時半
スライドトーク 吉田 俊英(豊田市美術館館長) 2月8日 14時〜15時半
学芸員による作品解説 3月1日、3月16日、4月5日 午後2時〜

東近美では「泥とジェリー」、世田谷美術館で「岸田吟香・劉生・麗子 知られざる精神の系譜」展が開催中なので見に行く予定。



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